エンゲージ

(前略)


 「ウン、…あッ!」
 素っ頓狂な声を出して、三橋がノートを取り落とした。ノートや、そこに挟まっていたプリント類の畳に広がるぱらり、と乾いた音が、変に響いた。後を追うようにシャープペンが落ちる。三橋の声に、俺まで吃驚して、なに、どうした、と上擦った声で問えば、恐る々々、と三橋が指を突き出す。
「えと、大したことじゃないけど、その、切っちゃッて…。」
 紙で切ってしまったと指を付きだしてきたから、俺は、付きだしてきた三橋の手首を捕まえて、無理矢理、と引き寄せた。ノートを拾うより先に、指を検分する。
「なにやってンだ、ばか。」
「う、」
 乱暴な物言いに、三橋が眉を寄せる。それから、伺うような上目遣い。やおら下から俺の表情を掬いとるみたいにして、覗き込んでくる。可愛らしいしぐさは、コイツ、そーゆーの、判ってやってンじゃないの?ッて、いッつも疑わしい。そう言うことされると、頬のあたりが熱くなる。三橋の淡い色の睫毛が、俺の赤面を煽るように、はたり、と鳥の羽ぶくようなまばたきを、ひとつ、ふたつ、と繰り返した。
三橋の左手の薬指の根元には、薄いひっかき傷のようなのが出来ていて、朱い色が、極僅かに、じんわり肌目に滲ンでる。変なところを切ったものだと溜息を吐く。紙は鈍いから、血は余りでなくとも、これは結構痛いだろう。
「…こンな傷でも、グローブしたときバイ菌でも入ッて化膿したら怖えーぞ。絆創膏、しとけよ。」
「うん、」
 諭す口調で言ってやると、三橋はよいこのお返事で頷いて、でも、その場から動かず、ぺろり、と細い赤い線に、舌を沿わせた。薄いくちびるから肉の色が覗く。
「…ばか、舐めンな。待ってろ。」
 傷を啜る三橋から何となく目を逸らしたくなって、俺は足許に転がしておいた自分のバッグをざかざかと乱雑に漁る。荷物に埋もれた底のほうから、随分前から入りっぱなしになっていた、絆創膏の一枚を引っ張り出す。化石的一枚だけど、絆創膏には賞味期限はないから、いいだろう。
「手ェ、貸して。貼ッてやるから。」
「う、あ、りが、と。」
 ぺりぺりと包装を破り、白い裏紙を剥がして、突きつけられた指の腹に巻き付けてやる。血は凝固し掛けているけれど、舐めた所為で融けた傷は鮮やかに赤い。
薄い傷を塞ぐように巻き付けてやって、俺は、ふと思い付きで、
「エンゲージリングのさ、左手の薬指には一本、心臓に至る血管が通ってるんだって。」
 唐突に、口に出してしまった。
言ってしまってから、俺はほんの少しだけ、しまった、と思った。ふい、と三橋の見上げてきた眼差しの感じで、しまった、と思った。
三橋は、ぱちぱち、と矢鱈はっきりした感じのまばたきをして、「ゆびわ、」と言った。それから、数でも数えるように、おやゆびから順繰りに指を折り、薬指に辿り着くと、指をひくりとうごめかせて、
「…そッか、だから、ゆびわをするのは、薬指なンだ、ね。」言った。

……







2006/3/19発行「こどものくに」より。「エンゲージ」(一部)
短篇小説三本収録