においだけ。



「…三橋、おまえ、何か食ッてる?」

 すん、と鼻を鳴らした阿部の鼻先に、甘い匂いが掠める。この匂いは知っている。
「飴?」
「うおッ?」
 声を掛けられた三橋の方が竦む。それから、左右、と見回し、俺?と頸を傾いで見せて、 阿部の科白を理解したのか、あせあせと早口に、
「エエト、田島君がね、イッパイで、旨いよッ!その、呉れて、あまい奴ッ!」
「…は?」
 三橋は、ワープロで文章を挿入するみたく、支離滅裂に喋るものだから、喋りきるまで待って、 それから、組み立て直さなくてはならない。阿部の頭のなかで、糊と鋏がくるくると動く。三橋の、 挙動不審な科白を組み立て直す。
「田島がイッパイあまい飴を呉れた、それが、旨い!」という、ところなのだろう。

 田島がイッパイって、何だそりゃ。(全く怖ろしい話だ。)



「あ!あのッ、阿部、君も…、」
 思いついたようにそわそわと、三橋は鞄の中を探りはじめる、しかし、なかなか見付からないのか、 あれ、あれ?と首を傾げて、今度は、自分の制服のポケットを、あちこち探しはじめる。 方々のポケットから出てくるのは、今、三橋が舐めているであろう飴玉の、セロファンの包み紙ばっかりだ。 白地にピンクやら黄色、青と、にぎやかな装飾、お下げ髪のマスコット。とろり、と甘い、ミルキー。
「あー、あー、三橋、俺いいから、別に。」
「うぇ、…えっと、ごめん、なさい、」
 謝罪を口にする三橋の頬は、飴を舐めているだけにしては、ぱん、と膨らみ気味で、俯き加減にも、 その口いっぱいに飴玉を詰め込んでいることが窺えた。
「お前、何個口に入れてンだよ!」と。例えば、相手が田島だとか水谷だとか、 遠慮無く、乱暴な口の利ける相手だったなら、言っていた。でも、相手は三橋だ。これでまた、萎縮されては敵わない。
(ふたつやみっつじゃあ、ああはならないだろうに、)
 膨れた頬を見ながら、阿部は思う。栗鼠やハムスターの頬袋じゃああるまいし。一寸だけ、笑ってしまう。
 三橋の動作は稚い。小動物のそれだ。臆病で、もそもそと鈍いのに、その癖、
「欲張りだ、」
「えッ、」
「ャ、何でもない、」
 三橋が口を開くたび、甘ったるい匂いが阿部の鼻をくすぐる、ミルクの匂い。 口の中で転がしているのか、時折、かろかろ、と軽い音がする。見遣れば、薄く開いた口にちらちら、 灯りみたく、薄淡い色をしたちいさな飴が見えた。途端、くちびるは閉じ、くちゃくちゃ、という音に取って代わる。 噛み砕かれて、飴の匂いはいっそう、濃くなったような気がする。

「あッ、いっこ、あった…、」
「あ?」
「あの、あ、飴!阿部君、も、」
 良かったら…、と三橋は消え入りそうな、細い声で言う。どうやら、食べきったと思っていた飴玉を、見付けたらしい。
 シャツの胸ポケットから、飴をひとつ、つまみ取る。未だ探していたのか、というのは扠置き、飴を、 阿部は、差し出されるまま受け取ってしまう。それを見て、安堵したように、三橋が息を吐いた。
「どー、ぞ!」
「…ドモ、」
 かさり、とかすかな音を立てて開いたセロファンに、飴は少しばかり溶けて、張り付くような恰好になっていた。 胸のポケットで温められたのだろう、それはほんの微かではあるけれど、一寸だけ。やわらかに歪んでいる。
 イタダキマス、と呟いて、阿部は戸惑わず口に、放る。溶けたままにやわらかな感触、甘さ。彼の胸の体温ぶん、溶け、歪んだ甘さ。
 三橋が、こちらを伺うように見ている。
「なに、」
 ふるふると首を振る、何でもない、と言うように。頭の動きに合わせて、淡い色をした髪の毛がぱさぱさ、 と動いた。三橋は、もう一度、胸ポケットの辺りを探る。飴はない。今度はスラックス、鞄、と転々と探すが、 どうやら、阿部に寄越したのが、最後の一粒だったらしい。未練がましい目をした三橋と視線が、一瞬、かち合う 。三橋の方から逸らされた。
「…モウ、食ッちまったよ、」
「う、ち、違、何ッでも、…ないです…。」
 ごめんなさい、と。縮こまって、三橋は謝る。俯く瞬間、仄かに甘い匂いがした。
 ような、気がした。
 阿部は、溜息を吐く。
「それ、ヤメロよ、」
「エ、」
「何か、お前、悪いコトしたって、思ってンのかよ、」
「へ、あの、俺、ゴメ、」
「だからさぁ、ヤメロ、その、ごめんなさい、ッつーのは、」
 言われると、何か、ヘコむンだもん。阿部が続ける。あめごときで。
「ひ、ご、ごめん、なさ」
「それだッつの、そーれ!」
 途端、弾かれるように、ぱっ、と両手で、三橋が口を覆う。垂れ下がった眉が情けない。 おどおどと怯えた眼差しの哀れさ。じんわりと眸の水分が揺れ、阿部が、アッと気付いた頃には遅い。 眦に溢れる。今にも、表面張力を破り、ほたり、零れそうな様相だ。

 ああ、全く、どう仕様もない。(こいつも、おれも、)

「みはし、…泣くなよ、」
 こくん、とふられた拍子に涙の、粒が床に落ちたような気がしたが、阿部は見なかったことにする。
 見なかったことにしながら、
「三橋、」
 言い聞かせるように、一音々々、丁寧な発音で、呼ぶ。「みはし。」
 赤く充血した涙目のまま、視線が問う、「…な、に?」あべくん、なに?と。みっしりと濃く、 三橋の視線が、涙目が、見交わされる阿部のまかぶらを、じん、と温める。視線そのものが、言葉より強く触覚に訴えかける。 こそばい。頬に、血がのぼる。こういう感覚は多分、不味いな、と思いながら、口の中の飴玉を、奥歯で、ぐい、と噛み砕く。


「匂いだけ、な。」
「へ、」

 間抜けに歪んだ顔に、自分のそれを寄せる。焦点の合わなくなる間際、三橋のまばたきの残像が残る。 視界の歪みきった距離で、ふぅ、と頬に、息を吹きかけた。三橋の前髪が煽られ、ぱらり、と舞う。甘い匂いが、 頬に、額に反射して、阿部にまでかかる。三橋の体温に溶かされて、渡された飴の匂い。 ミルクのフレーバー。今は、阿部の口腔に溶けた甘さ、匂い。


「に、おい…、」
「…おー、それで我慢しとけ、つか、オマエ食い過ぎだ、馬鹿。」
 虫歯になンぞ、と言って耐えきれず、阿部はふい、と顔を逸らした。仄かに湿った頬はたいそう目の毒だ。
 エエト、どうも、と。呟いた三橋の小鼻がひくり、と動いたのが目に入り、阿部は居たたまれないような心持ちになった。
 何をやっているンだろう、俺は。お前も。
「あまい。」
 ぽそ、と呟いた三橋は、でも、未だ微かに赤い眸を三日月型に歪めた。
 三橋が微かに、笑む。それを、阿部は素直に、これは、いい眺めだな、と思うのだった。
 口に残る甘い匂いその儘、飲み込む。
飴は、口腔内でかたちなく、融けた。

 








未だ々々、乳臭い関係。
九月十四日ニッキより