三日月のミュー 




 夜路の暗がりに紛れて重なったてのひらは、多分、お互いにがちがちとこわばっていて、でもそれが、今ひとつ確信が持てないのは、ふたりがふたりともゆびさきを冷たくしているからだと、三橋は考える。夕暮れ時は昼間の熱をちらしきれずに、妙な濃さを伴った空気が流れる。
 阿部は、半歩先を繋いだ三橋の手を引くふうにして歩く。駅までの路は、交通量の多い大通りで真っ直ぐ一本路なのだけど、阿部は、ひとつ奥に入った、少しばかり寂しい辻へと引き入れた。
 灯る街灯が、ふたりの影を、しるる、と長く伸ばす。ひかれるゆびさき。これは、ふたりきりの隠れんぼだ、と三橋は思った。
だって阿部と三橋は男で、こうして下心や、作為を持たせて手を繋ぐのは、そんな関係になるのは、一般的に面妖しいことだから。
 家々の明かりと、夕餉の匂いと。あたたかな気配のただよう細い路を、ふたりで歩きながら、三橋は、すい、と空を見上げた。星が、薄く、浮いている。あれが何座かは、知らない。「星の光は、大昔のひかりなのよ、」とそういえば母親が言っていたのを思い出した。そうだ、あれは、群馬へ預けられにゆく車のなかだった。自分は助手席でべそをかいていた。暗い車内をよく覚えている。三橋は、足許に転がっていた小石を、かつん、と蹴った。(あのとき、)星のひかりほど遠いところに置いてゆかれるのだと思って、幼い自分はずっと、ずっと泣いていた。
 「光速」なンて言葉がある。ひかりの進む速さなのだと。三橋には、目に映るちらちらとささやかな視覚で得るひかりと、その距離の、速度の概念が今ひとつ掴めなくなる。星の光は大昔のひかりで、大昔に発せられたその光は、ひとには得られない速度で進み、いま、三橋の瞳に写る。か細いひかりとして。「どこからきたの?」と訊いても、ひかりは応えないだろう。屹度、彼らだってそんな永きを覚えちゃいない。
 ぶううん、と音がして、刹那、前方から射るみたいに強いひかりが差した。路地に車が入ってきたらしい。阿部は、三橋の手を路端へ庇うように引いて、それから、



 手を放した。


 そりゃあ、そうだ、とおもう。何時誰に見咎められるか分からない、こんなの。自分も阿部も、自分たちの恋を守る術を、知らない。持たない。だから、誰かに、鬼に。見付からないようにして隠れんぼをするのだ。だから、だから。
 傷付く必要など、ない。
車に続いて自転車がたてつづけに二台、通り抜けて結局、三橋も、阿部も、再び手を繋ぐタイミングをなくしてしまった。
 それでも、並ぶようにしていれば、手の甲と甲が、時折ぶつかって、三橋の心臓はきゅう、と震える。阿部のくちびるの熱さだとか、抱きしめてくるかいなだとか、首筋に散る匂いとか。そういうものを知っても、未だ、甘く上擦るような震えをいちいちに感じる。



 帰る、一寸前、部室棟の非常扉の影に隠れて交わしたくちづけは、熱かった。人間の体温、平熱などたかが知れている、のに。忍び交わすものは、灼けるように、熱かった。
 くちづけの間、三橋はずっと、目を開けていた。目を開けて、非常扉の上部にひかる、緑色の誘導灯を見ていた。



「…醤油のにおいすンな、」
 腹減った、と阿部が言う。うつつに還り、三橋もそれをみとめて腹の虫が、きゅう、と鳴いた。曲がり角の家から煮炊きする匂いが流れてくる。振り返る阿部の目許は、やわらかく笑みを浮かべていて、こちらまで笑ってしまう。阿部と三橋の距離はゼロセンチ。手の甲が触れている。のに、何故か、繋げない。そんな距離。これは、星の距離だ。三橋はおもう。其処ここから漂う、夕飯時の匂い、しあわせな匂いからもどこからも、阿部と三橋は遠い。寄る辺ない。
 いつかの車内の心細さが、刹那、三橋を襲う。鼻の奥が、くわん、と痛む。泣く寸前の、痛みに似て途方もない。
 
 街灯のひかりの端、ふたりの影の伸びた先に黒い陰が、さっと走った。猫だろうか。
 白いシャツが夜目にぼんやり浮かぶ。阿部の腕が、ぼう、と街灯を弾いていて、明るかった。星みたいに、明るかった。

「あのね、阿部くん。」
「なに、」
「さみしい、ッて言ったら、」
「…は、」
「追いかけてくれる?」
「…なにそれ。」
 不可解そうに阿部が、三橋の顔を覗き込んでくる。みはしは、どういう顔をしたらいいのか分からなくて、謎々めいた笑みを浮かべるばっかりだ。なにそれ、ともう一度繰り返した阿部に、なんだろう、と曖昧に笑む。
「あのね、十、数えて。」
「…は?」
「十秒したら、追いかけて、くれる。」
「な、にが。」  阿部はかくん、と首を傾ぐ。眉根が寄って、困惑しているのが分かる。狙いを定めて、そののくちびるに、自分のそれを重ねた。
「ッ、はし!」
 背中の向こうで声がする。全速力で走る三橋を、一瞬遅れて、阿部が追うのが分かる。十秒数えて、ッて言ったのに。三橋は、笑う。
 本気で逃げ切る気のない自分は、いかに全速力でも直ぐに捕まるだろう。できれば、ぽっかり明るいところまで行ければ、いいと思った。もしふたりに埋められない、星の距離があっても。それならそれでもいいから。できれば、捕まえて欲しい。そう思う。

(つかまえて。)

 そうして、繋げなかったてのひらの変わりに、街灯の照らす路地で、キスをしたい、と思った。






星ほど遠くにいるあなた









夏コミ用の原稿より没作品を(日記掲載 8/2)

三橋の感傷は三橋だけのものであッて、阿部には全く、想像もしないことだといいな。
解り合えないことなんて、きっとほんとうは、多い方がいいのだとおもう。